あなたが離れていく、それだけが
072:酷く乾いた地面には足跡すら残らなくて
その人の細い頤とつながるように流れる首は高い襟やスカーフで隠されてしまっていた。白と黒で出来上がったそこへ蜂蜜のように甘ったるい金色の双眸。緩く巻いた黒髪は己にはないもので幼いころは少しうらやましかった。
「………なんだと?」
エリオットが茫然と問い返すとギルバートが荷造りの手を止めずに言った。
「俺はこの家を出ていく。だからこの部屋も好きにしてくれて構わない。物置でもいいし、人がこないからお前の勉強部屋や一人になりたいときに使う部屋にしてもいい――」
「そんなことはどうでもいいッ! オレが言っているのは! お前が、なんで」
でていく、って
ギルバートの目が申し訳なさそうにエリオットを見た。ギルバートはこの家に来た時からどこか卑屈で臆病だ。そのくせこの家に古くから伝わる黒き刃と称される魔獣の所有権を勝ち取ってしまった。ギルバートがこの魔獣の所有者となったときには、エリオットの実兄たちが父親ともめた。ギルバートとエリオットの間に血のつながりはない。ギルバートは養子だ。ベザリウスという友好的とは言えない間柄の家の従者であったと伝え聞いた。正式なナイトレイとは言えないと実兄達はあの手この手でギルバートとその実弟であり同じく養子であったヴィンセントを排除しようとしていた。
「少し前に、毒を、盛られた」
「それは知っている! だが大事なかったとお前は手紙に書いて、いただろうッ」
「迷惑をかけるわけにはいかない。俺が一人になれば犯人も尻尾を出しやすいだろう。ここは人の出入りがありすぎる」
エリオットの手がぶるぶる震えた。握りしめた拳が痛い。爪先が手の平の溝を深めて肉を裂く。
「…父上は」
「赦しはもらった。引っ越し先ももう確保してある。…面倒は、かけない。俺はパンドラの構成員になったから自分一人くらいなら面倒見れる。だからお前ももう、俺なんか忘れて…その、鴉を奪ってしまったことは謝罪するが…」
ばっちん、とギルバートの頬が鳴った。エリオットの血のにじんだ手のひらがギルバートの頬を打った。
「黒き刃のことはもういいッそれが気になるなら、出ていく理由ならそんなこと気にしていないと一筆書いてやるッ! なんで、なんで、出ていくんだ…ッ!」
ギルバートはまるでもう用事は済んだから、いる理由はないから、と出ていくようで去っていくようで。鴉だけが目的だったのか、だったらそんなものくれてやる。オレには父上から預かった黒い剣があるから鴉なんか要らない。もうナイトレイのこの家には帰ってこないような荷造りをして、周りには全部事後報告で止める手立てなんかなくして、それから出ていくっていうなんて卑怯だ。
「お前の長兄だが、彼が、『首狩り』に殺されただろう」
「だから出ていくのかッこの臆病ものが恥を知れぇええッ!!」
エリオットの腕がしなるのをがっと止められる。ギルバートを打てなかった敵意と勢いそのままに睨めつける先には紅と金色のオッドアイ。ぎりっとねじりあげられた腕は肩から肘から関節が悲鳴を上げるほど強い。
「さっきから好き勝手言ってそのうえギルを打って…何さまの心算だい、エリオット?」
「ヴィンス、よせ。責められるべきは俺にある、から――」
ギルバートは静かに実弟を諫めた。ヴィンセントは少しつまらなさそうな顔をしてから、そう、と言ってエリオットのねじり上げていた腕を放した。
「ギルが出ていくのは好きにしたらいいし鴉のことだってギルが気にすることなんかないんだよ? 毒を盛られたり嫡子が殺されていくような呪われた家、無くなっちゃえばいいのにね…」
「ヴィンセント! 貴様はナイトレイを侮辱する気か!」
ヴィンセントはギルバートとよく似た細い頤と首をしている。彼ら二人は実の兄弟であるという説得力でもある。同時にそれはエリオットを阻害した。
エリオットはギルバートが好きだった。顔を合わせれば脆弱者めが軟弱者めが臆病者めがと罵るが、基本的に何でも受け取ってくれるギルバートは寮住まいのエリオットが帰郷する理由になっていた。何かしらの儀式や祭りがあればギルバートを理由にエリオットは帰省する。幼いころからエリオットはギルバートやヴィンセントが疎まれる理由が判らなかった。長じてからは実兄達の言い分や感情の在り処をたどれるようになったから、どうして、と問うことはなくなった。だがそれは同時にギルバートへの感情を増幅させただけだった。恋愛小説なんかも時折たしなむようになってからこれが慕情であると気づいた。同時に体でつながりたかった。義兄と義弟の間柄だけではなく恋人として。他人であり血のつながりがないなら、いざというときはそれを振りかざせばいい。ギルバートだけはエリオットをちゃんと見てくれていた。エリオットが進学してからもまめに手紙をよこすしエリオットの行動を理由もなく否定したり問い詰めたりしない。ただ危ないことだけはするなよと、まるで母親のように。怪しい宗教にかぶれてしまった母親の喪失を埋めるようにギルバートは優しくエリオットに接してくれた。
「僕はナイトレイなんかどうでもいいよ。エリオットみたいな自意識過剰よりはよっぽど始末がいいと思うけど…?」
「エリオット!」
がっと黒い剣に手をかけるのを見たギルバートの制止の声にかろうじてエリオットは踏みとどまる。握りしめすぎた柄に血が伝い、ぽたりぽたりと紅い滴が滴り、剣が腕の震えのようにカタカタ鳴った。
「ヴィンスも言いすぎだ。ナイトレイもエリオットもなにも責められるべき点や厄介なことはない。ここを出ていくと極めたのは俺の意志だ」
ヴィンセントが初めて驚いたようにギルバートを見た。それでエリオットの留飲はいくらか下がる。下種だと思いながらそれは快感だった。
「俺が、自分で、この家を出ると極めたんだ」
パンドラからの給金で暮らしてゆく。ナイトレイの名を汚すような真似はしない。それだけは約束するから。ギルバートは静かにそう言った。
「…兄さん。兄さんはまた僕をおいて行っちゃうの?! せっかく会えたのに…!」
「ヴィンス、会えなくなるわけじゃない。転居先はお前も所属しているパンドラ組織からも検索できるし俺からも教えておくから」
ギルバートは平等だ。エリオットもヴィンセントも同じ弟として扱う。そんな優しさが、痛かった。エリオットは顔を俯けたまま微動だに出来なかった。ヴィセントがしきりに嫌がるのをなだめるギルバートの声が耳朶を滑る。目の奥がジワリと熱を帯びていく。鼻の奥がツンとしてビリビリ痺れるように目が熱い。眼球自体が熱を帯びたように熱く視界が奇妙な距離感を帯びる。対象物の質感さえ失われる見え方は落涙の前兆だ。泣きたくなかった。悔しかった。辛かった。哀しかった。ギルバートがこの家を出ていくと、さらりと何でもないことのように言ったことが。
ギルバートが、ナイトレイの名を目当てによってくる亡者の仲間入りをしてしまいそうで嫌だった。エリオットは最近ようやくリーオという従者を得た。だがリーオは孤児院の出身でありその血筋も系統も判然としない。その所為か兄姉にひどく疎まれ、ギルバートやヴィンセントのように疎外されていた。そのリーオを選んだ判断さえ、肯定してくれたのはギルバートだけだった。お前が自分で選ぶことを自分でやっただけだ、恥じることはない。お前の判断は間違ってはいないと、俺は思うよ。そう言ってほわりと微笑み、今度そのリーオを紹介してくれといった。
「まだ…まだ、お前にリーオを紹介してない」
ヴィンセントをなだめていたギルバートがふっと一瞬哀しげに顔を歪めた。金色の双眸が蜂蜜色にとろりと濡れる。少し長めの前髪の奥から覗く金色の双眸。綺麗だと思う。ありふれた碧色の己の目など路端の石に等しかった。その金色が潤んで揺らいだ。
「……ごめんな」
がしゃりと音をたてて剣が落ちた。唇を噛みしめた。ギルバートが顔を覗き込もうとする気遣いが疎ましい。
「エリオット?」
目が熱い。情けない。
「エリオットなんかかまわないで、兄さん。従者の紹介なんか要らないよ。リーオって君が最近捕まえた孤児院の子でしょ」
ヴィンセントがつけつけと言い放つ。全部正論でエリオットが反論できることなどない。感情面が逆立つだけだ。苛立ちや怒りを覚えながらその通りであることにさえ憤る。ギルバートも助け船の出しようがない。そもそも従者をギルバート自身はもっていないのだ。ヴィンセントでさえエコーという名の少女を従えているというのに。
「…ギルバートは、なぜ従者を持たない」
ギルバートはどこか遠くを見るような眼差しをしてからふわりと微笑んだ。その様は可憐で男性という性別さえ超越してしまう。優しげで守ってやりたくなるような。
「俺のマスターは一人だけだ。だから、俺がマスターになるなんてことはあり得ないんだ」
じゃあ。
ギルバートはもう誰か知らない誰かのモノってことなの?
見開かれていくエリオットの目にギルバートが驚いたように荷造りの紐から手を放した。
「エリオット? 何か、嫌なことでも言ったか?」
――お前の中に、オレは
――このまま別れてしまったら、オレはお前の中に、のこれないのか?
ぽたた、と熱い滴が溢れた。切れあがった眦で許容量を超えた涙が溢れて頬を滑った。
「お前は去ってしまうのか。オレをおいて、オレを忘れて――…オレは、オレはお前が、」
ぐぅ、と言葉に詰まる。そのままエリオットは嘔吐した。胃液ばかり吐き出されて喉が灼ける。
「大丈夫か、エリオット! ヴィンス、誰か…呼んで…」
飛び出していくヴィンセントを見送るギルバートの腕を掴んで引っ張る。そのまま連れだした。ギルバートが体の小さなエリオットに引きずられるようにして荷造り途中の部屋を後にする。
「エリオット?! 荷造りが途中だし、お前は休んだ方が、ヴィンスが誰か呼びに言ってるし」
エリオットは黙って屋敷の中で人がこないいつもの場所へギルバートを連れ込んだ。階段下はエリオットが泣きたいとき、一人で泣く隠れ処だった。埃まみれのそこでエリオットはギルバートを押し倒して慟哭した。
「行くな! 行って欲しくないッ! オレはお前にまだ、してやりたいことも言ってやりたいこともいっぱいあるんだ! お前が誰を見てるのかは興味ない。だがいつか、いつかオレの方を向かせてやると、思ってた、のに――」
口の端から伝う吐瀉物でギルバートのスカーフが汚れる。喋るたびに鼻をつく胃液が飛び散る。それでもギルバートは嫌がるそぶりさえせずにまっすぐエリオットを見つめていた。
「エリー」
その呼び名にはっとする。それはエリオットの最初の我儘。どうしておれのことえりーってよんでくれないの? 義兄たちに殴られながらギルバートはエリオットの愛称であるエリーという呼称でこっそり呼んでくれた。白い手袋を外して同じように白い手がそっと赤らんだエリオットの頬を撫でた。涙の跡を拭うように吐瀉物を拭うように。
「ごめんな、エリー」
「それでも、俺は行く。俺がいるべき場所はここではない。俺が主を待つ場所は別にあると俺は思う。臆病者だ逃げだしたものだと罵ってくれていい。だが俺は死ぬわけにはいかないんだ、主が帰ってくるまでは」
「オレじゃ守れないと言いたいのかッ」
「お前を守りに駆り出すほど俺は落ちぶれてない。そもそも俺は異分子だ。離れていくことに抵抗はないだろう。元々養子だ。血のつながりもないし…」
「だからオレはお前が好きなんだッ!」
頬が熱い。耳や首まで真っ赤になっている自覚はあった。それでも止められない。ちゃちな自尊心など振り切ってすがりつかなければこの愛し人は去ってしまう。捨て身の告白だった。身の程などかまっていられない。プライドを捨てて自尊心も無視して、ただ露骨に無骨に不器用に、でも正直に。それだけは真実。この脳髄の奥で燃えている思いをせめて伝えなければ。何も言わずに送りだしたとあってはエリオット=ナイトレイの名がすたる。
「…――オレは、お前が! なんでだかわかんないけど、でも…好きなんだ! お前だけなんだ! お前だけがお前の声だけが、エリーって呼んでくれるあの声が、好きで、好きで…オレはお前に好くしてやりたい。兄達だって説得してやる! お前を追い出すというならオレもついて行く! だから、だから」
エリオットの両頬を挟むようにギルバートの大きな手が包む。ひたりと吸いつくそれは知らぬ間に泣いていた。
「ありがとう、エリー」
戦慄く唇を噛んでエリオットがギルバートにすがりついた。
「駄目なのか? どうしても、行くのか――?」
「罵れ。俺は臆病風に吹かれたって。『首狩り』が怖くてナイトレイを去ったと。その方がお前らしいぞ」
コツンと額が当たる。幼子の熱を測るときのようにギルバートは目蓋を閉じていた。長くて黒く密な睫毛が見える。容よく整った目尻まで化粧したように彩るそれは美しかった。ギルバートは美しい。涙でにじむ視界にくずおれながらエリオットは声を殺して、ギルバートの胸で泣いた。
それが別れの合図だった。
ごめんなさい、きみがだいすきでした
ごめんなさい、きみがだいすきでした
「………ッえりー、て…よ、んで…」
「…ごめん、エリー…」
「…何でいつもごめんがつくんだ、馬鹿野郎」
「ごめん」
「…エリーって、呼べったら」
「エリー」
「あぁああぁぁぁぁあっぁあぁっぁああ」
主を失って渇き切った君の中へ私は轍さえ残せないのですか?
《了》